2020年5月24日日曜日

雑記:上を向いて歩こうか

全世界に凄まじいインパクトを残した今回のコロナウイルス。
自分視点に限って見た場合でも仕事や大好きだった登山ハイキングにおいて今後の在り方、付き合い方を考える機会になったと思う。

仕事の面ではテレワークが主体となって1か月強。以前はアレほど「働き方改革」という単語を連呼していても遅々として進まなかったワークスタイルの多様化に対する世の態度。満員電車に乗って職場に出社し、顔を突き合わせて行う議論の積み重ね、そこから生み出される成果物によってお給料を頂く。これが外圧によって社会悪となった途端の一瞬での変化。
従来の自他の必死に作業に勤しむその姿。これは決して個人の意思に基づくものでもなんでもなく、"労働"のインセンティブが一体何だったのかを否応なしに白日の下に引きずり出したのはコロナ騒動の少ない光の面と言って良いと思う。社会に生きる限りどうしようもなく深々と降り注ぐ黒い"恐怖"を打ち払うための"安心"。安心は責任に対する業績であったり、人間関係であったり、自身の居場所であったり、お金であったり。
本当は世の中を豊かにしてゆくための仕事。そういった理想に加えて利潤面とのバランスを考え抜いた現実的なお上のビジョン。これを踏まえた個々人にマッチした働き方。夢と生き方の模索。何かを選んで何かを捨てる。そこから導かれる筈のワークライフバランスが実現した、研ぎ澄まされた日本社会の姿から私達は確信的に目を背ける。変化に抗う固い決心に必死にしがみつく。それを先の豊かさを見据えたあるべき姿であると故意に己を欺き続ける。
今後のポスト・コロナにおいても以前と変わらない毎日を前提とした、後片付けに追われる日々が待っている。では世の中は変わらないのか?恐らく変わらない。しかし元に戻ろうとする際、もしかしたら何かしらの誤差が生じるかもしれない。それが希望の芽となるのではないかと思う。そこでは自分には何が出来るだろう?良い意味での誤差やエラーを生み出せるだろうか?自分とみんながバランスよくニコニコ幸せに生きてゆくために出来ること…。


登山ハイキングにおいては、超・過密状態となってしまう事が避けられない夜行バスと山小屋が向こう数年は以前の様に使用出来ない可能性があり、出歩けたとしてもターゲットが(飛行機が必要となる海外は当然望めず)日帰りが可能な超近場に限定され、最悪先細ってしまうことが予想される。これは自分がライフプランとして目標にしていた一座への道に暗い影を落とした事は確かで、流れ的には根本的な変化を自分に求めてきているようにさえ感じる。本当にどうしようか。登山ハイキングは自分なりに苦しんだ先に見つけた、内側から自信を生み出す本当の意味を知るに至った大切な活動。ではあるが、今回の件は「そこの一点に依存してはいけない」という示唆としても受けることが出来る。成程、"依存先"は複数確保しておくべきなのだと思う。これは道楽に限った話ではないかもしれない。そんな事を考えていたりはするが、拙速に「1」「0」のような結論を出そうとは思わない。今必要なのは時間、そして先を見定めるための情報である筈だ。暫くの間は様子を窺おう。